イタリア人の口論を聞いていると彼らの右に出るものはいないと、イタリア人の才能には関心してしまうことがしばしばある。
イタリアに移り住んで間がないころは、マッシー(主人)と彼の母親との日常の会話が、私には喧嘩腰にしか聞こえなかった。
私は、てっきり私のことが原因で親子が喧嘩をしていると思い込み、罪悪感からよく影で泣いていたことは以前にブログの中で触れたと思う。
娘の小学校入学のための学校での説明会の場でも、弁論の才能は先生と保護者、又は保護者同士で大いに発揮されているところを見聞きすることになった。
黙って学校側の説明を受けていたら30分足らずでとっくに終了しているものを、激しい言葉のやり取りで3時間という無駄な時間が流れていくのだ。
先週、こうしたイタリア人の口論を日頃見聞、観察し続けてきた成果が問われる時がやってきた。
我が家は昨年から、いろんな事情で送迎に学校のスクールバスを利用している。
家の前の通りのもう一本先の通りまで、大人の足で途中畑をまたいで12分ほど離れた、指定されたバス停に子供たちを朝は7時半に車で送っていき、帰りは徒歩でそこまで4時半に迎えに行っている。
このスクールバスが私たちの子供たちを乗せずに、それも定刻時間前に出てしまったのだ。
車のスピードを上げ、前方に見えてきたスクールバスに、クラクションを鳴らしながら追いつき、バスを停止させて、子供たちをバスに乗せることができた。
引き返すため車を走らせようとすると、同じバス停から乗る女の子とその父親が必死にバスを追いかけて走ってくるではないか。
この姿を見た時に頭のせんが“プッツン”と切れた。この女の子をも待たずに通り過ぎるなんて。
私はこの親子をすぐさま私の車に乗せ、再び件のバスを追うことになった。
助手席に座った女の子の道案内でどうにか次のバス停で追いつき、クラクションを派手に鳴らしながら停車。
苛立ちの感情を抑えることなく、女の子の父親と共にここぞとばかりに口論に及んだのだ。
でもさすがに、こういう類の口論は身に良くない。その日中、ずっと胃がチクチクして痛かった。
イタリア人は感情を隠すことを知らないというか、状況や立場に関係なく、自身の言いたいことをはばかりなく披露する。それも、自分の意見が間違っておろうとなんであろうと無理やりにそうするのである。
さればこそ、イタリア人は日本人ほどストレスを溜め込まずに日常生活を送れるのかもしれない。